第4章 作る前に、決めていましたか
「もう作れます」と言われたときの違和感

「もう作れます」と言われたときの違和感
移行対象を決め、優先順位を整理したことで、プロジェクトは一気に前に進んだように見えた。
ベンダーとの打ち合わせも増え、構成図はクラウド前提のものに描き直され、会議の中では「いつ作り始めるか」という話題が自然と中心になっていった。そんな中で、ある打ち合わせの終盤、ベンダーの担当者が何気なく言った。
「では、こちらの構成であれば、もう作り始められますね」
その言葉を聞いた瞬間、会議室の空気が少し軽くなったのを感じた。“いよいよ進む”という期待と、“ここまで来た”という安堵が、同時に広がったのだと思う。だが、私はその言葉に、素直にうなずけなかった。
作れる。
確かに、技術的にはそうなのだろう。だが、本当に「作ってよい状態」なのだろうか。その違和感は、はっきりとした言葉になる前に、胸の奥で引っかかっていた。

逃げ場になっていた言葉
打ち合わせ資料を見返しながら、私はいくつかの点に目が止まった。
管理者権限は、誰が持つのか。
障害が起きたとき、最終判断をするのは誰なのか。
構成変更は、どこまで現場判断で許されるのか。
どれも、「あとで決めればいい」とされていた項目だった。これまでのオンプレミス環境でも、似たような状態だった。だからこそ、問題が起きたときに誰も全体を説明できなかった。同じことを、クラウド上で繰り返すわけにはいかない。
そう思えば思うほど、「もう作れます」という言葉が、軽く聞こえてしまった。

作る前に整えるという仕事
次の打ち合わせで、私は意を決して口を開いた。
「少し、待ってもらえませんか」
一瞬、会議室の空気が止まった。誰かを責めたわけではない。反対したわけでもない。ただ、立ち止まりたいと言っただけだ。だが、その一言には、思っていた以上の重さがあった。早く進めたいという空気の中で、「まだ早い」と言うことは、進行を妨げる人間になる覚悟が必要だった。それでも、ここで進めてしまえば、それでも、ここで進めてしまえば、また同じ不安を抱え続けることになる。
私はそう感じていた。
結局、環境構築に入る前に、いくつかのことを決める時間を取ることになった。
管理者の役割分担、障害時の連絡ルート、判断が必要な場面で、誰が最終責任を持つのか。
どれも、技術的な話ではない。だが、運用にとっては欠かせない話だった。
話し合いは、決してスムーズではなかった。「そこまで決める必要があるのか」
という声も出た。
それでも、一つずつ言葉にしていくことで、これまで曖昧だった境界線が、少しずつ見えるようになっていった。
コラム:「作らなかったから、失わずに済んだもの」
クラウド移行の現場では、「作れる状態」と「作ってよい状態」が、いつの間にか同一視されがちだ。だが、中小企業の現場を見ていると、あえて立ち止まった判断が、後になって多くのものを守っていたケースも少なくない。以下は、国内の現場で実際に起きた、「作らなかった判断」が意味を持った事例である。
- 事例①
- 事例②
- 事例③
- 事例④
権限設計を後回しにしなかったことで、責任の押し付け合いを防いだ
従業員約90名のサービス業では、クラウド基盤の構築を目前に控えた段階で、管理者権限の整理ができていないことが判明した。スケジュールは厳しかったが、環境構築を一旦止め、権限と責任範囲を明文化。その結果、障害発生時の判断が迅速になり、「誰が決めるのか分からない」という混乱を防ぐことができた。
早く作るより、決めてから作る方が、結果的に運用を軽くした例である。
運用フロー未整理のまま進めなかったことで、属人化を断ち切った
製造業(従業員約150名)では、クラウド移行直前に「障害時の対応手順が担当者の頭の中にしかない」ことが問題になった。構築開始を1か月延期し、最低限の運用フローを文書化。結果として、特定の担当者が不在でも初動対応が可能になり、現場の不安が大きく軽減された。
作らない判断は、個人ではなく組織を守る判断だった。
「とりあえず作る」を止めたことで、不要な環境増殖を防いだ
IT専任者のいない小売業では、PoC目的でクラウド環境を次々と作り始めていたが、管理ルールが決まっていなかった。途中で構築を止め、目的・期限・廃棄ルールを整理。結果、使われない環境が増え続ける事態を回避でき、後のコスト説明も容易になった。
作らない選択が、後悔しないクラウド利用につながった。
経営判断を待ったことで、現場が板挟みにならずに済んだ
従業員約120名の卸売業では、クラウド構成は固まっていたものの、障害時の最終判断者が曖昧だった。現場判断で進める案もあったが、構築を一旦止めて経営層と整理。結果、判断の線引きが明確になり、現場担当者が責任を一人で背負う状況を避けることができた。
